じうた

日:地歌。地唄ともいう。 

三味線音楽の中で、関西を中心に行われた家庭音楽。
専門的な教習はその職業的演奏作曲家であった盲人音楽家によった。

永禄年間(1558〜70)に伝来した蛇皮線=じゃびせん(中国の三弦、沖縄の三線=さんしん)を、それまで平曲の琵琶を扱っていた盲人音楽家が改造して、その音楽を芸術化した。
その代表者が石村検校(いしむらけんぎょうとその門下の虎沢検校(とらさわけんぎょう)と伝えられる。


柳川流と野川流
最初の芸術的な三味線歌曲は、いくつかの関連のな小歌を組合わせたもので「三味線本手(しゃみせんほんで)と称した。
その後柳川検校が整理して、端手組(はでぐみ)・裏組などを補作した。

また、1703(元禄16)年には組形式によらず一編にまとまった歌に対して「長歌」という概念ができ、1706(宝永3)年には大阪の野川検校作曲の長歌が広められ、組歌も編集され、ここに京都の柳川流、大阪の野川流という分野が行われた。


端歌の発達と演奏形式の変化
流行歌風のものも、これら盲人音楽家が扱って「端歌」と称していたが、享保(1716〜36)頃から、積極的な作曲活動が行われはじめた。

宝暦(1751〜64)頃には非常に流行して、天明・寛政(1781〜1801)頃には峰崎勾当(みねざきこうとう)らにより、「雪」をはじめ現代に伝わる名曲がつくられた。

同時に器楽的な発達も遂げ、1789年頃には「手事物(てごともの)」という分類が確立して、器楽的間奏部に重点を置く曲が、やはり峰崎勾当らによって作曲された。

その後、こうした手事物は替手(かえで)式の箏との合奏形式を生み、特に京都において松浦検校・菊岡検校が箏のパートを作曲してから、地歌と箏曲とが完全に結合して、単に演奏者が共通するというだけではなく、楽曲の種目として、地歌とも箏曲とも断定しがたい演奏形式となった。


こうして箏曲と同様に盲人音楽家を家庭音楽として普及し、現在では盲人以外の職業的演奏家も多い。



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