ロシア音楽

英:Russian music   独:russische Musik
仏:musique russe   伊:musica russa

  ロシア人は音楽的で太古から特有の民族音楽を豊富に持ち、6世紀のビザンツの記録によれば
  グスリという民族的弦楽器を修得していたが、それらを芸術的に高めることが出来ず、1700年頃
  迄音楽的には未発達だった。
  しかし、その時代にも、ビザンツの教会音楽だけはやや芸術的だった。

  12世紀には教会音楽がかなりロシア的に変化して、ロシア聖歌またはズナーメニ聖歌(記号のつい
  た聖歌の意)となった。その記号はビザンツのネウマから発達したものであるが、ロシアではクリウキ
  (かぎ)と言われ、80種以上にも分化した。この音楽は単旋律で、専門的な聖歌隊だけが歌って会衆
  が加わることは許されず、楽器の使用も禁じられていた。

  やがて次第に改革されて15〜16世紀には複音楽も行われるようになったが、1551年の宗教会議
  がその他の民族的音楽を禁止し、1636年には教父ヨアザフの命令で多くの楽器が消却されたので、
  ロシアでは合唱の教会音楽だけが盛んになり、世俗的な芸術音楽は発展しなかった。

  1672年に大帝ピョートル(在位1672〜1725)が即位、西洋のあらゆる文化を移入してからロシア
  の音楽も西洋化され、模倣されるようになった。特にイタリアの音楽は尊重され、ロシアの学生は好ん
  でイタリアに留学した。

  ロシアのイタリア化は女帝アンナ(在位1730〜40)の時代に著しくなり、エカテリーナ二世(在位
  1762〜96)の時頂点に達した。ナポリのアラーヤを初めとして多くのイタリア音楽家が次々とロシアに
  来てオペラや教会音楽などイタリアの様式を入れた。

  ロシアに、真のロシア的な音楽を与えたのは「ロシアの民族主義音楽の父」と言われるグリンカである。
  そのオペラはロシアの物語にロシア的な音楽を用いた最初の完全なロシア・オペラとなった(これはソ連
  では暫く禁止されていた)。

  グリンカと同じ頃のダルゴミジュスキーはワーグナー風の手法を用いて民族主義的なオペラを作曲した。
  グリンカとダルゴミジュスキーの意図はすぐ5人組に継承され、ますます強化された。

  リムスキーコルサコフが音楽学校の教授として民族主義を強調したが、彼が次第に西洋化するにつれて
  折衷的な作曲家を出すようになった。
  近代ではリムスキーコルサコフに学んだストラビンスキーが新しい様式で国際的に知られた。
  同じようにリムスキーコルサコフの系統のプロコフィエフは、多くソ連で作曲生活をした。



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