クラシック音楽人名辞典 ア行

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あくたがわやすし(日本:芥川也寸志)
日本の作曲家(1925〜89)。ソ連音楽に傾倒して単身で訪ソした。オスティナート(※執拗)を重視した独特なリズムを持つ。作品にはオペラ「ヒロシマのオルフェ」、「第一交響曲」、「エローラ交響曲」、コンツェルト・オスティナート等がある。作家芥川龍之介の息子で俳優芥川比呂志の弟     
ウラジミール・アシュケナージ(ロシア:Vladimir Ashkenazy
ロシア出身(1937〜)、アイスランドのピアノ奏者であり指揮者でもある。1955年ショパンコンクールで第2位、1956年エリザベートコンクールで第一位、1962年チャイコフスキーコンクールで第一位を獲得。1970年代から指揮者としても活動を始め、ロイヤルフィル、ベルリンドイツフィル、チェコフィル、N響の指揮者などを歴任。
ステファン・アスケナーゼ(ポーランド:Stefan Askenase
レンベルク生まれ(1896〜)。ポーランドのピアニスト。ショパンに教えを受けたかなり実力のあるといわれた母からピアノを教えられた、いわゆるショパンの孫弟子にあたる。ショパンの理解者の一人として知られている。1927年ベルギーのブリュッセルに居を移し各国で演奏活動をした。
クラウディオ・アバド(イタリア:Claudeo Abbado
イタリアのミラノ生まれ(1933〜)。指揮者。1960年にミラノスカラ座のガラコンサートでデビュー。ウィーン国立歌劇場、ロンドンフィル、ベルリンフィルの音楽監督を歴任。オペラとコンサートで活躍している。
アイザック・マフエル・アルベニス(スペイン:Isaac Manuel Fransisco Albenis
(1860〜1909)。近代スペインを代表する作曲家・ピアニスト。エンリケ・グラナドスとともに近代スペイン国民音楽の再興者といわれる。4歳の時ピアノ演奏会を開き、神童として一躍楽壇にデビュー。6歳でパリへ行き、当時最も優れたピアノ教授マルモンテルに師事。マドリード音楽院を経て、ライプチヒ音楽院、ブリュッセル音楽院に学ぶ。1878年、ブタペストにリストを訪ね大いに影響を受けた。帰国後教職に就いたが、教師時代の約10年間に250曲に及ぶピアノ小品を作曲、そのうち「コルドバ」、「カディス」等が有名である。1893年にパリに移り、バンサン・ダンディ、ガブリエル・フォーリ、ポール・デュカスらと交わって作品に洗練度を加えた。12曲からなるピアノ組曲「イベリア」(1906〜09)は最高傑作。
クラウディオ・アラウ(チリ:Claudio Arrau
チリ生まれ(1903〜91)。ピアノ奏者。5歳でリサイタルを開き7歳でドイツに渡ってマルティンクラウゼに師事。14歳の時にジュネーヴ国際コンクールで第一位になりベルリンでデビュー。特にベートーヴェンの演奏で有名。
ヤコブ・アルカデルト(オランダ:Jacobus Arcadelt
フランドル出身(1514頃〜72頃)。オランダの作曲家。1530年代フィレンツェで活躍し、ミケランジェロとも交際していた。1539年ローマに移り、バチカンの礼拝堂の歌手になり、翌年レスティン礼拝堂の楽長となった。世俗音楽に優れていた。
マルタ・アルゲリッチ(アルゼンチン:Marta Argerich
アルゼンチンのヴェノスアイレス生まれ(1941〜)ピアの奏者。3歳から音楽の才能を示し5歳の頃からヴィンチェンソ・スカラムッサに師事、8歳でモーツアルトを弾いた。その後ヨーロッパに渡りウィーンのフリードリッヒ・グルダ、名ピアニストのディヌ・リパッティーの未亡人、スイスのニキタ・マガロフ等に師事。1957年にブゾーニ国際コンクールとジュネーブ国際コンクールの両コンクールで優勝、1965年のショパン・コンクールで第1位となり、マズルカ賞受けた。女性には珍しい力強さと優れた技術に加え強力な個性(情熱的)を持つ演奏は他の追随を許さない。
アイザック・マヌエル・フランシスコ・アルベニス(スペイン:Isac Manuel Francisco Albeniz
(1860〜1909年)近代スペインを代表する作曲家・ピアニスト。4歳の時ピアノ演奏会を開き神童として楽団にデビュー、6歳でパリへ行き、当時最も優れたピアノ教師マルモンテルに師事。マドリード音楽院、ライプチヒ音楽院、ブリュッセル音楽院に学び、帰国後教職に就いた。1893年にパリに移住、現代スペイン国民音楽の再興者といわれる。「コルドバ」、「カディス」等のピアノ小曲。12曲からなるピアノ組曲「イベリア」は最高の傑作といわれる。
カール・ジョナス・アルムクウィスト(スエーデン:Carl Jonas Love Almqvist
(1793〜1866)。スペインの作曲家。ウブサラ大学を卒業後、文部省官吏、農民生活、教師と転々とし、借財からついに毒殺未遂の疑いをかけられアメリカに逃亡。どん底生活の後、ドイツのブレーメンで客死した。波乱の生涯にもかかわらず、「アモリーナ」(1822)、「女王の宝石」(1834)などの傑作を残した。神秘的雰囲気の古典名作を残したスエーデン・ロマン派の作曲家。
ヴィルマ・アンダーソン・ギルマン(イギリス:Wilma Anderson-Gilman)
イギリスの女性ピアニスト。詳細は不明だが「ウォーターローの戦い」で名前が知られている。
マリアン・アンダーソン(アメリカ:Marian Anderson
(1902〜)アメリカの黒人アルト歌手。トスカニーニに “100年に一人の美声” と激賞された声の持ち主。1925年ニューヨークでデビュー、ヨーロッパに渡って活躍し、1938年ハワード大学、1941年テンブル大学の名誉音楽博士となる。1955年、黒人歌手として初めてメトロポリタン歌劇場に出演した。本来はオペラ歌手だが、彼女の歌う黒人霊歌は絶品である。1965年に引退した。
モーリス・アンドレ(フランス:Maurise Andre
フランスのトランペット奏者(1933〜)。フランス国立管、ラムルー管、パリオペラコミーク座管の首席を歴任。1955年のジュネーヴ国際コンクール、1963年のミュンヘン国際コンクールで優勝した。1966年から母校のパリ音楽院の教授として、同時にソリストとして活躍し、“トランペットの神様”と言われている。
レル・アンチェルル(チェコ:Karel Ancerl
(1908〜1973)。チェコの指揮者。プラハ音楽院卒業。ベルリンに留学しドイツでデビュー。第二次大戦中アウシュビッツ収容所に送られ、奇跡的に助かるが、家族は死亡した。1950年チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者となった。1968年チェコ事件でカナダに渡り、1970年カナダ・トロント交響楽団の常任指揮者に就任した。スメタナ、ドボルザークのチェコ音楽、ショスタコービッチ、プロコフィエフのロシア音楽を得意とする。
マリア・イヴォーギュン(ハンガリー:Maria Ivogun
ハンガリー生まれ(1891〜1987)。コロラトゥーラ・ソプラノ歌手。13年にドイツ・ミュンヘン宮廷歌劇場でデビュー。後にベルリン宮廷歌劇場で活躍。その間にウィーン宮廷歌劇場、メトロポリタン歌劇場などに出演。シュワルツコップ等を育てた。
アドルフ・イエンゼン(ドイツ:AdolfJensen
(1837〜1879)。ドイツの作曲家。サロン的なピアノ小曲を残している。作品17第3番が知られている。
イヴァノヴィッチ(Ivanovici)
ルーマニア軍楽隊の指導者。「ドナウ河のさざ波」が有名。
エウゲーネ・イザイ(ベルギー:Eugine Ysaye
(1858〜1931)。ベルギーのヴァイオリニスト・指揮者・作曲家。5歳の時から父にヴァイオリンを習い、リェージュ音楽院に学ぶ。のち、ウィニアフスキーやパータンに師事した。1886〜98年ブリュッセル音楽院の教授を務めて、かたわらヴァイオリニストとして演奏活動をした。また、幻覚四重奏団を組織し、室内楽kの分野でも活躍して、近代音楽の普及と紹介に尽くした。1918年にはシンシナティ交響楽団の常任指揮者となったが、1922年にはブリュッセルに戻り、独奏に力を入れた。作曲にはヴァイオリン・ソナタやヴァイオリン協奏曲等がある。巨匠としての位置を確立し、セザール・フランクやドビッシーが献曲している。
ハインリヒ・イザーク(フランドル:Heinrich Isaac
フランドル出身(1450頃〜1617)。フィレンツェの作曲家。フィレンツェのオルガニスト・スククァルチアールに教えを受け、1474年には同地で名手の誉れ高く、1480年代には聖ジョバンニ教会・聖マリア聖堂のオルガン走者を歴任した。メディチ家失墜(1494)と共に同地を去り、1495年頃から宮廷作曲家として皇帝マクシミリアン1世に使え、インスブルック宮廷を中心に南ドイツで活躍した。晩年はフィレンツェに戻り同地で没した。対位法作曲家として優れたミサ曲やリート曲を残している。
ミハイル・ミハイロヴィッチ・イッポリトフ-イワノフ(ロシア:Mikhail Mikhaylovich Ippolitov-Ivanov
(1859〜1935)。ロシアの作曲家。ペテルブルク音楽院作曲科でリムスキー・コルサコフに師事。卒業後グルジアのチフリスで10年余間音楽教育に従事し、同地の民謡に親しんだ。1906〜22年までモスクワ音楽院長を務め、ロシア革命後の音楽教育に貢献した。作風は伝統的で、民謡を素材としたものが多い。組曲「コーカサスの風景」は有名である。
いふくべあきら(日本:伊福部 昭)
(1914年〜)日本の作曲家。東京芸大で後身の指導にあたり、芥川也寸志、黛敏郎等の作曲家を育てた。1935年「日本狂詩曲」がチェレプニン賞を受賞。他に「交響譚詩」、「日本組曲」、「ヴァイオリン協奏曲第一、第二」、「シンフォニア・タプカーラ」等がある。1953年の著書「管弦楽法」は名著とされている
ジャック・イベール(フランス:Jacques Ibert
(1890〜1962)。フランスの作曲家・指揮者。パリ音楽院出身。1919年ローマ大賞を得てローマに留学、その地で書いた交響組曲「寄港地」が彼の名声を世界的なものにした。ローマのフランス学院長、国立オペラ劇場連合の総監督として活躍、その功績により1956年には学士院会員に選ばれた。代表作には他に、オペラ「ペルセウスとアンドロメダ」、ピアノ組曲「物語」等があり、色彩的な管弦楽法、明快で軽妙な持ち味を特徴としている。
タマーシュ・ヴァシャーリ(ハンガリー:Tamas Vasary
デフレシェン生まれ(1932〜)。ハンガリーのピアニスト。5歳の時デフレシェンの音楽学校に入学、8歳の時モーツアルトのピアノ協奏曲を演奏してデビューした。戦後ブダペストのフランツ・リスト・アカデミーに入学、そこの最高賞であるフランツ・リスト賞を受賞した。演奏は、ハンガリー人独特の真面目さがあり、そのステージの素晴らしさは定評がある。中でもショパンの演奏についてはその音楽性や演奏技術が高く評価されている。
アントニオ・ヴィヴァルディ(イタリア:Antonio Vivaldi
イタリア・ベネツィアの生まれ(1678〜1741)。18世紀後半のイタリア・バロックを代表する作曲家。「四季」をはじめとするバロック協奏曲の作曲家として有名。殉教者でもあったヴィヴァルディはベネツィアの女児孤児院のヴァイオリン教師及びコンサートマスターとして活躍。当時の孤児院は音楽学校でもあり、協奏曲の大半はこの学校の定期演奏会の為に書かれた。また、オペラ作曲家としても有名。「シンフォニア23番合奏協奏曲・調和の霊感」などがある。
ヘンリック・ウィエニアフスキー(ポーランド:Henryk Wieniawski
ポーランド生まれ(1835〜1880)。ヴァイオリニスト・作曲家。8才からパリ音楽院に学び、1860年ペテルブルク(レニングラード)の宮廷ヴァイオリニストとなった。1872年にロシアの名ピアニスト・アントン・ルビンシュテインとアメリカ演奏旅行をした。1874〜77年ブリュッセル音楽院で教授を務めたが、晩年は不遇のうちにモスクワで客死した。作品は「モスクワの思い出」が有名。
ガリーナパヴロブナ・ヴィシネフスカヤ(ソ連:Pvlovna Vishnevskaya
ソプラノ歌手(1926〜)オペレッタ歌手を経て1952年にボリショイ劇場で「フィデリオ」でデビュー、以後同劇場のプリマドンナとなり、メトロポリタン歌劇場、ウィーン国立歌劇場などにも出演した。1974年にアメリカに渡った。
ジョン・ヴィッカース(カナダ:Jon Vickers
カナダ生まれのテノール歌手(1926〜)。トロント音楽院で学びオラトリオ歌手としてデビュー、1954年に「カルメン」のドン・フォセ役でオペラ・デビュー。コヴェントガーデン王立歌劇場やバイロイト音楽祭に出演、20世紀を代表するヘルデンテノール(※ワーグナーの歌劇で英雄を演じるのに適したテノール)でワーグナー歌手としてはもとより、イタリア・オペラで比類ない活躍をした。
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(ドイツ:Wolfgang Windgassen
(1914〜74)。ドイツのテノール歌手。20世紀を代表するワーグナー歌手。1939年にデビュー。シュトゥットガルト国立歌劇場の専属歌手ながらコヴェントガーデン王立歌劇場、メトロポリタン歌劇場にも出演し、バイロイト音楽祭でも歌っている。
カール・マリア・フォン・ウェーバー(ドイツ:Carl Maria von Weber
初期ロマン派を代表するドイツの作曲家(1786〜1826)。ヨーゼフ・ハイドンの弟のミヒャエル・ハイドンに学ぶ。1813年プラハ歌劇場の指揮者に就任、4年後にはドレスデン歌劇場の指揮者に就任。この頃からドイツ国民歌劇の構想が練られ1820年「魔弾の射手」となって実現した。これによってドイツ・ロマン派の進む道を開いた功績は大きい。1826年にはロンドンから以来された「オベロン」が完成。ピアノ協奏曲(2曲)、ピアノ曲「舞踏への勧誘」、「コンツェルト・シュテュック」、「クラリネット小協奏曲」等器楽曲も数多く残しているが、歌劇で本領を発揮している。
アントン・ウェーベルン(オーストリー:Anton von Webern
(1883〜1945)オーストリアの作曲家。1904年からシェーンベルクに師事、卒業後は作曲のかたわら各地の劇場指揮者をつとめた。現代音楽に新局面を開いた。1908年の「パッサカリア」は調性のある作品だが、以後は「六つのバガテル」など極度に緻密な無調の小楽曲を書く。「三つの歌曲」から12音技法を用い、交響曲「点描」で未知の書法を確立した。第二次大戦中にナチスにより活動を停止され、終戦の年にアメリカ兵の誤解により射殺された。
ジョゼッペ・ヴェルディ(イタリア:Giuseppe Fortunio Fracesco Verdi
イタリア・パルマ近郊レーロンコーレ生まれ(1813〜1901)。イタリア最大のオペラ作曲家で、ワーグナーと並ぶオペラ界の巨匠。幼児から音楽的才能を示し、10歳からブッセートの大聖堂合唱長プロベシに作曲の基礎を習い、18歳からミラノに出てスカラ座指揮者ラビニャに学ぶ。1839年処女作「オベルト」でスカラ座初演、1842年旧約聖書による3作「ナブッコ」の成功によりイタリア各地から新作の依頼を受ける。1851年ベネチア初演の「リゴレット」で国際的に認められる。「トロバトゥーラ」(1853)、「椿姫」、仮面舞踏会」(1859)、「運命の力」(1862)、「ドン・カルロ」(1867)などで題材も多様になり、歌に管弦に円熟期を迎えた。「アイーダ」では内容の充実強化で絶賛され、ボイトの勧めで「シェークスピアの戯曲による、「オテロ」を作曲、声楽と管弦楽の劇的表現の深まりで楽劇的傑作と仰がれる。その他、喜劇「ファルスタッフ」等。歌劇の他にはブゾーニに捧げた「レクイエム」もある
エルマンノ・ウォルフ-フェラーリ(イタリア:Ermanno Wolf Ferrari
ベネツィア生まれ(1876〜1948)。イタリアの作曲家。父はドイツ人の画家。ミュンヘンでヨーゼフ・ラインベルガーに作曲を学び、1899年オラトリオ「スラミテ」、翌年にオペラ「シンデレラ」を上演して認められ、「スザンナの秘密」、「聖母の宝石」、「四人の田舎者」等のオペラで成功を収めた。古い題材にセンスの新しい独特の手法で効果をあげている。
フーゴー・フィリップ・ヤコブ・ヴォルフ(スロベニア:Hugo Philpp Jacob Wolf
オーストリーの作曲家(1860〜1903)。ワーグナーの熱烈な信奉者で生涯その態度を変えなかった。作曲の傍ら批評家として反ワーグナーに攻撃の文章を書いたこともあった。神経的な異常な敏感さが影響して、1897年に精神病院に収容され精神j錯乱のまま死去した。作品はデリケートな表現をもたらしている。「メーリケ歌曲集」、「アイヘンドルフ歌曲集」、「ゲーテ歌曲集」、「イタリア歌曲集」等。
レイフ・ヴォーン・ウィリアムス(イギリス:Ralph Vaughan Williams
イギリスの作曲家(1872〜1958)。収集した民謡や賛美歌を素材にした作品でイギリスの国民主義音楽を推進させ全てのジャンルで作品を残し、イギリス音楽を復興させた。「ロンドン交響曲」、「グリ−ンスリーブス幻想曲」、「タリス幻想曲」等。
ヘンリ・ヴュータン(ベルギー:Henri Vieuxtemps
(1820〜81)。ベルギーのヴァイオリニスト・作曲家。19世紀の代表的なヴァイオリニストの一人で、フランス・ベルギー楽派の指導者。1833年以後、ヨーロッパ各地に演奏旅行し名をあげた。ペテルブルグ(レニングラード)音楽院、ブリュッセル音楽院で後進の指導にあたる。主要な作品に7曲のヴァイオリン曲がある。
セオドール・エステン(ドイツ:Theodor Oesten
ベルリン生まれ(1813〜1870年)ドイツの作曲家・演奏家。従来の日本では英語読みのオースティンと呼ばれていたが最近ではドイツ読みのエステンと書いてある楽譜が多くなった。作曲家であると共に演奏家としても知られ、彼が演奏家となるきっかけを作ってくれたのは街の楽師たちで、楽師に借りた楽器を鳴らしているうちに演奏の仕方を覚えたといわれている。19歳の時正式に作曲の勉強をしているが、それ以前にも多数の舞曲や変奏曲などを作曲していた。エステンの作品は日本のレスナーが好んで演奏している。「人形の夢と目覚め」、「アルプスの夕映え」、「アルプスの鐘」など、メロディーが美しいこと決まった形があるので演奏しやすさで親しまれていて、子供のピアノ発表会でプログラムの定番になっている。
クリストフ・エッシュエンバッハ(ポーランド:Christoph Eschenbach
ブレスラウ生まれ(1940〜)。ポーランドのピアニスト・指揮者。8歳の頃母から正式にピアノを教えられた。10歳の時、その素晴らしい才能を知った指揮者のオイゲン・ヨッフムの薦めでmハッッブルクのエリーザ・ハンゼ女史(シュナーベル・フィッシャー門下)に師事し、本格的なピアノの勉強を始めた。12歳の時スタイウェイ・コンクールで第1位となり、その後ケルンの高等音楽学校に入学H・シュミット教授のもとで勉強を続けた。17歳の時ミュンヘン国際音楽コンクールで特別賞を受賞、卒業する少し前にドイツ音楽学生コンクールで第1位になった。1959年ハンブルク音楽大学でピアノのレッスンを受けるとともに、ヴァイオリン科と指導科のコースもマスターした。21歳の時公式にピアニストとしてデビューしたが、「特別な才能を持った生まれながらの芸術家」と賞賛され、彼のモーツアルト・リサイタルやベートーベンの解釈は音楽界に大きなセンセーションを巻き起こした。
ジョージ・エネスコ(ルーマニア:Georges Enesco
(1881〜1955)。ルーマニアの作曲家・ヴァイオリニスト。ウィーン音楽院・パリ音楽院でヴァイオリンと作曲を学ぶ。初めヴァイオリニストとして活躍、のち教授活動にも従事。ルーマニアの指導的作曲家。ネニューインの師として有名。作品は「ルーマニア詩曲」、「ルーマニア狂想曲」等。
エドワード・エルガー(イギリス:Edward Elgar
イングランド西部のウスター近郊生まれ(1857〜1934)。近代イギリス音楽復興の祖といわれる大作曲家。1896年のカンタータ「オラフ王」で認められ、1899年の「エニグマ(謎)変奏曲」、1900年のオラトリオ「ジェロンティウスの夢」で世界的な名声を博した。ドイツ・ロマン派の影響から脱して真にイギリス的な近代音楽に貢献した。他には、二つのオラトリオ、二つの交響曲、交響詩「ファルスタフ」、行進曲「威風堂々」等。
デーヴィッド・オイストラッフ(ロシア:David Oistrakh
ロシア・ウクライナ・オデッサ生まれ(1908〜74)。ヴァイオリニスト。ヴァイオリン界の巨匠であり、指揮者としても活躍。1937年にイザイ(エリザベート皇太后)国際コンクールで1位。第二次大戦後世界各地で活躍、絶賛を浴びた。ロシア的な演奏の中にも、確実な技巧と豊かな表現力を持っている。息子のイーゴリ(Igor Davidvich−1932〜)もヴァイオリニストである。
ヨアンネス・オケゲム(フランドル:Johannes Ockeghem
(1430頃〜1495)。フランドル楽派初期の代表的な作曲家。カノン技法の開拓の点でその業績を称えられていたが、近年ではそれ迄の対位法芸術をあらゆる面に拡大発展させ、何よりもその表現力を大々的に高め、深めた点に、その業績を認められるようになった。15世紀最大の作曲家ギョーム・デュフェの弟子ともいわれ、次の世代のフランドル楽派の中心人物ジョスカン・デュプレの師。
おざわせいじ(日本:小澤征爾)
(1935〜)日本の指揮者。1959年ブザンソン指揮者コンクールで優勝。日本フィル、トロント・フィル、サンフランシスコ・フィル、ボストン・フィル、ウィーン国立歌劇場の首席(音楽監督)を歴任。日本を代表する世界的指揮者。
ジャック・オッフェンバック(ドイツ:Jaques Offenbach
ドイツ・ケルン生まれ(1819〜80)。フランスのオペラ、オペレッタ作曲家・チェリスト・指揮者。1858年、オペレッタ「天国と地獄」、「美しいエレーヌ」、ジェロルスティン大公妃殿下」。オペラ「ホフマン物語」は未完のまま没した。
アルチュール・オネゲル(フランス:Arthur Honegger
フランス生まれ(1892〜1955)。スイス人の両親を持つスイス国籍。フランスで活躍した作曲家で「フランス六人組」の一人。バッハを模範として尊敬し、ダリュス・ミョーと共に「六人組」の原動力となった。作品はフランスの詩人達(ジャン・コクトー等)の詩による歌曲やオラトリオ、交響曲、交響詩、器楽曲、劇音楽等、内容を厳しく追及したもので規模が大きい。「機関車パシフィック231」、「火刑台上のジャンヌダルク」、「ダビデ王」等。
ヤコブ・オブレヒト(フランドル:Jacob Obrecht
(1450頃〜1505)。15世紀後半のフランドル楽派の音楽家。ユトレヒトの聖歌隊少年歌手を振り出しに、カンブレー聖堂楽長、ドナティアヌス聖堂楽長などを歴任。また、作曲にも優れ、その作風にはギョーム・デュフェとヨアンネス・オケゲムの影響が見られ、考え抜かれた構築性が目立つ。
ユージン・オーマンディ(ハンガリー:Eugene Ormandy
ハンガリー出身(18991985)。ヴァイオリニスト・アメリカ(帰化)の指揮者。ヴァイオリニストとして活躍、のち指揮者に転じ、1936年フィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者となった。この楽団とのコンビで世界的名声を獲得した。のち、ミネアポリス響の常任指揮者、フィラデルフィアの管弦楽団の音楽監督をつとめた。豊麗な響きを生み出すのが特色。
ジョージ・オーリック(フランス:Georges Auric
(1899〜)。フランスの作曲家。初めパリ音楽院でコーサード、バンサン・ダンディらに師事。1920年 “六人組” に加わり、詩人ジャン・コクトーに親しむ。作風はシャブリエ、サティ、ストラビンスキーらの影響を受けた。第一期には大衆的な機知と貴族的な洗練さをもつ多くの歌曲や「水夫」などのバレエ音楽を作り、第二期には雄弁で力強い曲を作った。映画音楽も手がけ、第二次世界大戦前には「自由を我等に」、戦後は「美女と野獣」などでも人気を博した。
カールオルフ(ドイツ:Carl Orff
ミュンヘン生まれ(1895〜)。ドイツの作曲家・音楽教育家。1914年ミュンヘンの高等音楽学校を卒業。歌劇場指揮者ギュンター学校の教師を経て、1950年母校の作曲家主任教授に就任。カンタータ「カルミナ・ブラーナ」、「カトゥリ・カルミナ」をはじめ、歌劇「アンティゴーネ」などの代表作がある。
オーギュスタ・オルメス(仏:Augusta Holmes
パリ生まれ(1847〜1903)。アイルランド系の役人の家に生まれ11歳から音楽を学んた。セザール・フランクに師事し、1889年のパリ万国博でカンタータ「勝利の頌歌」を発表し成功を収めた。四つのオペラ、9つの交響曲等の大曲が多い。


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