クラシック音楽人名辞典 カ行

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パブロ・カザルス(スペイン:Pablo Casals
(1876〜1973)。20世紀最大と言われるスペインのチェロ奏者。10歳からチェロを習い初め、バルセロナ市立音楽学校とマドリード音楽院を卒業後1898年パリでデビューし、以後欧米各地で独奏者として活動した。かたわら、1905〜33年にかけてピアノのコルトーやヴァイオリンのチボーとピアノ三重奏団を作り最高の室内楽演奏を聴かせた。指揮者としても活躍。楽曲解釈と感情移入の独自性は他の追随を許さない高い境地を示し、特にバッハ等の古典演奏に関する造形の深さには定評がある。
ジョージ・ガーシュイン(アメリカ:Geirge Gershwin
(1898〜1937)。シンフォニック・ジャズを確立した近代アメリカ作曲家。セミクラシック作品も書いている。ユダヤ系ロシア移民の貧しい家に生まれ、初めはジャズ・ピアニストとして生計を立てていたが、「スワニー」のヒットにより作曲家としてのきっかけを作った。「ラプソディー・インブルー」(1924年)はクラシック音楽とジャズの技法および精神との融合を目指した野心作で、彼の名声を不動のものにした。代表昨は他に、ニグロのフォークオペラ「ポギーとベス」、「ピアノ協奏曲へ長調」、交響詩「パリのアメリカ人」等。晩年にはミューカル・コメディーや映画音楽の作曲もした。
ジュリオ・カッチーニ(イタリア:Giulio Caccini
ローマ生まれ(1550頃〜1618)。イタリアの歌手・作曲家。モノディ様式の歌劇を確立したフィレンツェのカメラータ(新しい音楽形式について議論した芸術家の一群)の一員。代表作には歌劇「エウリディーチェ」、独唱用マドリガル「麗しのアマリリ」等がある。
フランチェスカ・カッチーニ(Francesca Caccini
フィレンツェ出身(1587〜1640頃)。ジュリオ・カッチーニの長女でイタリアの歌手・作曲家。作品には歌劇「ルッジェーロの救出」等がある。
アンドリュー・カーネギー(スコットランド:Andrew Carnegie
スコットランド生まれ(1835〜1919)。アメリカの鉄鋼王。アメリカ資本主義勃興期を代表する事業家。13歳の時家族と共にアメリカに移住、苦労を重ねた後、南北戦争中に輸入鉄鋼の価格が急騰したことから鉄鋼業の将来性に着目し、鉄道レール、機関車鉄橋等の生産を開始し、ベッセマー法の導入に成功して巨額の利益を上げ、1881年にはカーネギー兄弟会社を設立。後に学問、芸術、教育等の分野に関心を注ぎ、莫大な資産を提供して多くの大学、研究所、音楽堂(カーネギーホール)などを設立した。
ドミトリー・カバレフスキー(ロシア:Dmitri Kabalevsky
ペテルブルグ(レニングラード)生まれ(1904〜87)。モスクワで育った。モスクワ音楽院でミヤコフスキーに学んだ後さらにピアノ科に学んだ。ソ連の作曲家・ピアニスト。モスクワ音楽院教授。音楽学校で教師をしていた頃に作曲した子供のためのピアノ曲の他多数のピアノ曲が有名。代表作には歌劇「コラーブルニョン」、組曲「道化師」、「ヴァイオリン協奏曲」等。スターリン賞を3回受賞している。
アンドレア・ガブリエリ(イタリア:Andrea Gabrieli
(1510頃〜86)。イタリアの作曲家・オルガニスト。ベネチアのサン・マルコ大聖堂の歌手オルガニストとして活躍しながら新しい和声手法を用いた教会音楽や器楽曲の名作を作曲した。16世紀のイタリアで最も進歩的な音楽家達のグループであるベネチア楽派の一人。甥のジョバンニやハンス・レオハスラーの師。
ジョバンニ・ガブリエリ(イタリア:Giovanni Gabrieli
(1557〜1612)。イタリアの作曲家。アンドレアの甥。フランドルの作曲家ラッススの指導下にミュンヘンで活躍し、1568年にはベネチアのサン・マルコ大聖堂のオルガニストになった。伯父アンドレアの作風を受け継いでベネチア楽派独自の複合唱様式を頂点に高め、その後のバロック音楽に影響を与えた。ヨハン・セバスチャン・バッハ以前のドイツ最大の作曲家シュッツの師でもある。
マリア・カラス(アメリカ:Maria Callas
ニューヨーク生まれ(1923〜77)。ギリシャ移民の子として生まれ、ギリシャとイタリアの両国籍を持つ。ギリシャのアテネ音楽院で学び15歳の時アテネでオペラ歌手としてデビューしたが、その後イタリアで活躍、イギリスやアメリカでも公演し高額な出演料で話題となった。声も容姿も良く、典型的なプリマドンナ。ドイツ、イタリア、フランスのオペラをこなした。ドニゼッティやベルリーニ等のベルカント・オペラを復活させた功績も大きい。
ヘルベルト・フォン・カラヤン(オーストリー:Herbert von Karojan
ザルツブルグ生まれ(1908〜89)。オーストリーの指揮者。現代最高の実力と名声を持つ。ウィーン音楽アカデミー(現ウィーン音楽大学)で学んだ後1927年デビュー。1938年ベルリン国立歌劇場指揮者に抜擢され楽界における地位を決定的なものにした。第二次世界大戦後の活躍はめざましく、一時はヨーロッパの主要なオーケストラ・歌劇場の指揮者の地位を殆ど独占した。巨匠フルトベングラーの死後、その後を継いで1955年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者となる。ブラームス、チャイコフスキー、Rシュトラウスを得意とするが、交響曲もオペラもこなせる万能型で、情感を深くこめた新ロマン主義ともいうべき演奏をした。
エンリコ・カルーソ(イタリア:Enrico Caruso
ナポリ生まれ(1873〜1921)。イタリアのテノール歌手。20世紀最大のオペラ歌手の一人。10歳から教会で歌っていたが1891年から本格的に声楽を習い、1894年ナポリでデビューした。1898年ミラノで成功し、1903年以降ニューヨークのメトロポリタン歌劇場を中心に活躍、同劇場の黄金時代を築いた。生来の美声に豊かな声量をそなえベルカント唱法に熟達、まれにみる幅広いレパートリーと絶大な人気を誇った。
ツェーザリ・キュイ(ロシア:Tsezar’ Kyui
ポーランド生まれ(1835〜1918)。ロシアの作曲家・音楽評論家。ロシア五人組の一人。作曲をスラニスラフ・モニューシコに学んだ。1850年ペテルブルグレニングラード)に移って築城学を専攻し、その権威者になった。音楽家としてはセミプロで歌劇よりも小規模なサロン風の作品に成功した。代表作に「コーカサスの捕虜」、「ウlリアム・ラクトリフ」、「大尉の娘」等がある。
エミール・ギレリス(ロシア:Emil Gilels
オデッサ生まれ(1916〜85)。オデッサの音楽院在学中に全ソ音楽コンクールに優勝、その後モスクワ音楽院でH・ネイガウスに学んだ。1938年イザイ(現エリザベト)国際コンクールで優勝。米ソ冷戦中に1954年アメリカを訪れ「鋼鉄のタッチ」と評されるなど、ソ連を代表する名ピアニスト。
グァルネリ(イタリア:Guarneri
イタリア・クレモナの高名なヴァイオリン製作者一族。
アンドレア・グァルネリ(イタリア:Andrea Guarneri) 
(1626頃〜98)ニコロ・アマーティの弟子でそのスタイルを直接受け継いだ。グァルネリ家の祖。
ジョゼッペ・グァルネリ(イタリア:Giuseppe Guarneri
(1698〜1744)。一族中で最も有名でアンドレアの孫にあたる。ストラディバリと並び称せられるイタリア最大の名工で、ストラディバリに学んだとも伝えられる。
セルゲイ・アレクサンドロビッチ・クーセヴィッキー(ロシア:Sergei Alexandrovitch Koussevutzky
ロシア生まれ(1874〜1951)。アメリカの指揮者・コントラバス奏者。モスクワ音楽院卒業後コントラバス奏者として活躍していたが、1907年指揮者に転じた。1917年のロシア革命後パリを経てアメリカに渡り、1924〜49年ボストン交響楽団常任指揮者を務め名声を博した。この間、現代音楽を積極的に紹介し、さらにクーセヴィッキー音楽財団を設立して、新作を有能な大家や新進に以来するなどして、アメリカ音楽会の発展に貢献した。
ハンス・クナッペルツブッシュ(ドイツ:Hans Knappertsbush
(1888〜1965)ドイツの指揮者。ケルン音楽院で指揮法を学び、ドイツ各地の歌劇場の指揮者として活躍、1922年ブルーノ・ワルターの後任指揮者となった。一時、ウィーン国立歌劇場に移ったが第二次大戦後復帰。ワーグナーとブルックナーの作品を得意としドイツやオーストリーで熱狂的な人気を博した。
シャルル・フランソワ・グノーフランス:Charies Francois Gounod
(1818〜1893年)、フランスの作曲家。近代歌劇の祖といわれた。幼少から優れた音楽家の母にピアノを学んだ。パリ音楽院ではアレビ、バエール、ルシュール等に作曲を学びローマ賞を得てローマに留学した。そこで宗教音楽に興味を持ち、帰途ドイツやオーストリーを訪ねてメンデルスゾーン、シューマンを知り作品に接した。パリに帰ってから教会のオルガン奏者となり、のちに男声合唱団の連合「オルフェオン」の会長となった。多くの宗教曲や14の歌劇等を作曲し、特に歌劇「ファースト」は有名。叙唱・詠唱・管弦楽を互いに均衡のとれたものとし、近代フランス歌劇の先駆者となり「近代フランス歌劇の祖」と言われる。
フランソワ・クープラン(フランス:Francois Couperin
(1668〜1733年)、フランスの作曲家。当時はクラブサン音楽を中心としたギャラント様式(優雅な音楽)を作ることが盛んで、いろんな音楽に題名をつけることが流行になった時代だった。
ラファエル・クーベリック(チェコ:Rafael Kubelik
チェコ生まれ(1941〜96)。スイスの指揮者。1934年にデビューし、チェコ・フィルの常任指揮者、ブルノ国立オペラの音楽監督の後。国政の変革で国外に出て、シカゴ響、コヴェント・ガーデン王立歌劇場、バイエルン放送響、メトロポリタン歌劇場など歴任した。マーラーの演奏に定評がある。
フリッツ・クライスラー(オーストリア:Fritz Kreisler
ウィーン生まれ(1875〜1962年)オーストリアのヴァイオリニストで作曲家。20世紀前半に“クライスラー時代”を築いた名手。ウィーン音楽院とパリ音楽院で学んだ後、1888年ヴァイオリニストとしてニューヨークでデビューした。1943年にアメリカに帰化した。芸風はウィーンの伝統を良く伝え情緒の豊かさを特徴としていた。近代ヴァイオリン奏法の確立者。
カルロス・クライバー(ドイツ:Carlos Klriber
ドイツ生まれ(1930〜2004)。アルゼンチン、オーストリーの指揮者。22歳でデビュー、1953年から本格的な活動を始めミュンヘン、ポツダムを経てライン・ドイツ・オペラ、チューリヒ、ブルテンブルグの歌劇場の指揮者をつとめ、1968年からバイエルン国立歌劇場の黄金時代を担った。レパートリーは少ないが、一作一作の完成度が限りなく高い希有な指揮者だった。
フリードリヒ・クーラウデンマーク:Friedrich Kuhlau
(1786〜1832年)コペンハーゲンに行きそこで活躍した。デンマーク国民オペラの創始者であり、デンマークの指導的作曲家として認められた。
リリー・クラウス(ハンガリー:Lili Kraus
ハンガリー生まれ(1905〜86)。アメリカのピアニスト。ブダペスト音楽院でバルトークとコダーイに学んだ後、ウィーン音楽院でA・シュナーベルに学び、20歳で同音楽院の正教授となった。21歳から演奏活動に入り、ウィーン古典作品、特にモーツアルトでは世界最高の演奏との評価を得た。ヴァイオリニスト・ゴールドベルクとのデュオも有名。
セオドール・クラーク(ドイツ:Theodor Kullak
(1818〜1882年)ドイツのピアニスト・音楽教育家。音楽学校を設立して有能な音楽家を育てたことで有名。
アレクサンドル・コンスタンティノビッチ・グラズノフ(Alexander Konstantinocich Glazunov
ペテルブルグ(レニングラード)生まれ(1865〜1936)。ロシアの作曲家・指揮者。国民楽派最後の大家といわれる。若くして天才とうたわれた。リムスキーコルサコフに師事し、16歳で「第一交響曲」を発表して注目された。後ペテルブルグ音楽院の院長となったが、ロシア革命後1928年パリへ行き客死した。バレエ音楽「レイモンダ」、「交響曲「ステンカラージン」他に8曲の交響曲など器楽曲に優れ、ロシアのブラームスと呼ばれた。
ヨハン・バプティスト・クラーマー(ドイツ:Jahann Baptist Cramer
(1771〜1858年)ドイツの作曲家。クレメンティーに指示し、クレメンティーの影響でピアノの古い演奏法(指遣い、特に親指)を改革しようとしたのが「クラーマー=ビューロー」という練習曲集に見られる。
レインゴリト・モリツェヴィッチ・グリエール(ソ連:Reyngol’d Moritsevich Gloer
キエフ生まれ(1875〜1956)。ソ連の作曲家。楽器製作者の家に生まれモスクワ音楽院卒業。1920年モスクワ音楽院の作曲家教授となり、ソ連初期の指導的音楽家として活躍した。国内各地の少数民族の音楽に興味を示し、彼らの音楽素材を取り入れて多くの作品を書いた。代表作に中国革命を題材にしたバレエ「赤いケシ」等がある。
エドヴァルド・グリーグ(ノルウェー:Edvard Hagerup Grieg
ベルゲン生まれ(1843〜1907)。ノルウェーが誇る国民主義音楽最大の作曲家。幼少から母にピアノを習い、5歳の時ノルウェーのヴァイオリニスト・オーレのすすめでドイツのライプチヒ音楽院に入学、ピアノと作曲を学んでメンデルスゾーンやシューマンのひきいたライプチヒ楽派の影響を受けて帰国した。1864年、ノルウェーの作曲家ノルドラークに会い国民主義音楽に目覚めた。後にオスロに移って音楽協会を作り、指揮者としても活躍し、1874年以降は国家の終身年金を得て作曲に専念した。北欧に育ったグリーグの作品には、自然界に想いをよせたもの、農民や牧童の生活の反映など抒情的作品が多い。主な作品にはイプセン(同じノルウェー)の戯曲「ペールギュント」の付随音楽やピアノ協奏曲イ短調」等がある。
アンドレ・クリュイタンス(ベルギー:Andre Qluytens
ベルギー・アントワープの生まれ(1905〜67)。ベルギーの指揮者。父は同地のフランス劇場の指揮者だった。1947年デビュー、後フランスに移り歌劇指揮者として活躍した。1947年パリのオペラ・コミック座音楽監督、1949年パリ音楽院管弦楽団常任指揮者となった。フランス音楽を得意としたが、ベートーベン、ワーグナー等のドイツ音楽も絶賛されるという幅の広さを示した。
アーサー・グリュミオー(ベルギー:Arthur Grumiaux
1921〜86)ベルギーのヴァイオリニスト。ブリュッセル音楽院出身、のちパリで江ネスコに師事。フランス−ベルギー派の代表的名手。モーツアルトおよびフランス音楽を得意とする。ピアニストのクララ・ハルキルとのデュエットで世界的な名声を博した。
ミハイル・イヴァノビッチ・グリンカ(ロシア:Mikhail Ivanovich Glinka
スモレンスク県ノボスパススコエ村生まれ(1804〜57)。ロシアの作曲家。ロシア古典派の祖。13歳でペテルブルグ(「レニングラード)に移り、ピアニストのジョン・フィールド等に師事したが一旦辞め官吏をつとめた。1830年〜34年にイタリアやドイツで過ごし、ベルリンでデーンに音楽理論を学んだことが大きな影響を受けた。「音楽を作るのは民衆で、われわれ作曲家はそれを編集するだけだ」という言葉は有名で、その態度を明確に示している。ロシア国民楽派は彼の最初のオペラ「イワン・スサーニン」(1836年初演)から始まるとされる。また、オペラ「ルスランとリュドミラ」(1842年初演)ではオリエンタリズムなど、ロシア音楽のもう一つの要素を導入している。チャイコフスキーは「大きな樫の木も一つの実から生まれるように、ロシアの交響曲はすべてここから生まれてきた」と述べている。作品には他に管弦楽曲、室内楽曲、歌曲などがある。グリンカの伝統はバラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー・コルサコフの、いわゆる五人組に受け継がれた。
クリストフ・ヴィルヴァルド・グルック(ドイツ:Christoph Willebald Gluck
(1714〜87)。ドイツのオペラ作曲家。チェコで育ち1741年ミラノでオペラ作曲家としてデビュー、その後ウィーンとパリで活躍。ドラマと音楽的な表現を一致させる新しいオペラを推進し、近代オペラ確立への先駆的役割を果たした。父の意志で官吏になる教育を受けたが、歌劇を聴いてその魅力に取り憑かれ歌劇作曲家になることを決意した。ミラノに行き、著名な作曲家サンマルチーニに4年間師事、1741年ミラノで「アルタセルセ」で歌劇作曲家として認められ、イタリア各地およびロンドンで活躍した。ウィーンの銀行家の娘と結婚し、活動の場をウィーン移し、この頃から作風の転換がみられるようになった。1762年オペラ「オツフェオとエウリティーチェ」、1767年「アルチェステ」、1770年「パリーデとエレナ」を作曲し、当時の習慣となっていた歌手の技巧の不必要な誇示を排して単純な作曲技法で最大限の劇的効果を上げた。1774年パリに進出し「アウリスのイフィゲニア」「タウリスのイフィゲニア」を初演して成功し、1780年ウィーンに帰り、栄光のうちに引退した。
コルネリウス・グルリットドイツ:Cornelius Gurlitt
アルトナ生まれ(1820〜1901年)。ドイツの作曲家。アルトナで音楽の勉強を始め、のちにコペンハーゲンに行きハルチマン、バイセニに作曲法やオルガンを学んだ。のち1841年から4年間コペンハーゲン近郊で音楽教師として働いたが、国王の奨学金を得てローマに留学、後にローマの音楽アカデミーの名誉会員にもなった。1864〜98年あるとなの中枢教会のオルガニストと合唱団の指導者となり、同時にハンブルクの音楽院で教授になる。オーケストラ曲、室内楽曲、オペレッタ、合唱曲、オラトリオ、歌曲など数多くの作品を残した。グルリットの曲は初歩者にも理解できるような優しいメロディーが多く、しかも音楽的にも優れている。
ムツィオ・クレメンティ(イタリア:Muzio Clementi
(1752〜1832年)イタリアのピアニストで作曲家。幼時から優れた楽才を発揮した。1766年にイギリスへ渡り、修業時代を経て、1770年代前半にはピアニスト・作曲家としてロンドン楽壇に登場し、ロンドンを中心にヨーロッパ各地で多彩な音楽活動を展開した。ピアノ教師として多くの弟子を育成すると共に、楽譜出版やピアノ制作、音楽曲教育にも貢献し「ピアノ音楽の父」と呼ばれた。
フルードリッヒ・グルダ(オーストリー:Friedrich Gulda
(1930〜2000)オールトリーのピアニスト・作曲家。グロスマン音楽院とウィーン音楽アカデミー(現音楽学校)で学び1944年にデビュー、2年後にジュネーヴ・コンクールで優勝した。その後各地でソロ活動を行い、ジャズにも関心を寄せバンドを組むなど幅広いエンターテイナーとして活躍。
グレン・グールド(カナダ:Glenn Gould
(1932〜82)。カナダのピアニスト。3歳でピアノを弾き、5歳で作曲をし、14歳からソリストとして活躍した伝説的名手。特にバッハでは史上最高とされている。1947年からアメリカ各地のオーケストラと共演、またヨーロッパにもデビューして名声を博したが、1964年に公開の演奏活動を辞めてレコーディングに専念した。
レジーヌ・クレスパン(フランス:Regine Crespin
(1927〜)。フランスのソプラノ歌手。パリ音楽院で学んだ後1950年に「ローエングリン」のエルザでデビュー、翌年パリのオペラ座に出演。1956年から同歌劇場と終身契約を結んだ。メトロポリタン歌劇場、コヴェント・ガーデン王立歌劇場、ウィーン国立歌劇場、バイロイトやグラインドボーンの音楽祭にも出演した。ワーグナーやR・シュトラウス等のドラマティックな役を得意とした。
ギドン・クレメル(ラトビア:Gidon Kremer
(1947〜)ヴァイオリニスト。モスクワでD・オイストラッフに師事し、1969年のパガニーニ国際コンクールと1970年のチャイコフスキー国際コンクールで優勝、20世紀後半を代表する名手として活躍。ソリストとしてだけでなくロッケンハウスフェスティバルや祖国の若手演奏家を集めたクるクレメラータ・パルティカを主宰するなど幅広い活動を行っている。
オットー・クレンペラー(スイス:Otto Klemperer
ブロツラフ生まれ(1885〜1973)。ドイツの指揮者、後スイス国籍。フランクフルト音楽院を卒業。1907年マーラーの推薦で指揮者としてデビュー、現代歌劇の積極的上演者として名声を高めた。ナチス時代はアメリカで活躍し、第二次世界大戦後はヨーロッパ楽壇に復活した。レパートリーは幅広く、古典から現代作品に及ぶ。ベートーベン、ブラームス、ブルックナー、マーラーなどドイツ、オーストリー音楽では独自の重厚さを示し、高い評価を受けた。
ファーディ・グロフェ(アメリカ:Ferde Grofe
ニューヨーク生まれ(1892〜1972)。アメリカの作曲家・編曲家・ピアニスト・ビオラ奏者。初めビオラ奏者としてロサンゼルス交響楽団で活躍し、1920年ポール・ホワイトマンの率いるジャズバンドに入りガーシュイン作曲の「ラプソディ・イン・ブルー」の管弦楽編曲で名をあげた。また、組曲「大峡谷」は彼の傑作としていっそう評価を高めた。
ニコライ・ゲッダ(スエーデン:Nicolai Gedda
(1925〜)スエーデンのテノール歌手。ロシア人でバス歌手の父親の影響で声楽を志し、1960〜70年代のイタリア・オペラ界で屈指のリリック・テノールとして名声を確立させた。(※リリック=叙情的)。レパートリーはラモーからバーバー、また、宗教曲や民謡まで幅広く持ち、あらゆる分野で名唱を残している。
ルードヴィッヒ・フォン・ケッヘル(オーストリー:Ludwig von Kochel
(1800〜77)オーストリーの音楽評論家。モーツアルトの全音楽作品を整理し番号順に配置した「年代順主題目録」は最大の労作で、モーツアルトの作品は一般にケッヘル番号で呼ばれる。専門は鉱物学・植物学であったが、音楽学では前述の「年代順目録」の他ウィーン宮廷音楽に関する業績が著名である。(※ケッヘル番号=ふつうケッヘルの頭文字「K.」ををつけて書き「ケッヘル」と読む。例:K.527は「ドン・ジョバンニ」をさす)
ルイス・ケーラー(ドイツ:Louis Kohler
ブラウンシュヴェイク生まれ(1820〜1886年)。ドイツのピアニスト。ブラウンシュヴェイクでピアノ、ヴァイオリン、音楽理論を学び、1839年からウィーンに出て音楽理論と作曲法を学んだ。その後チェルニーのすすめでピアノを勉強し、後にピアノ教育者として多くの弟子を育てる基礎を作った。1847年からケーニヒスベルクで教師として活躍を始め、また合唱団の指揮者、評論家、ピアノと理論を教える学校の校長として活躍。教育的なピアノ曲を沢山書いた人。日本では古くからピアノ教材として多くの人に使われてきた。作品は「ギャロップ」、「学校の帰り道」、「ポルカ」等。
ルイージ・ケルビーニ(イタリア:Luigi Cherubini
フィレンツェ生まれ(1760〜1842)。古典派からロマン派への推移期におけるフランス楽壇を代表する作曲家。作曲家としてイタリア各地やロンドンで好評を博し、1787年以後パリに定住する。後年はパリ音楽院の校長となった。創作は交響曲や室内楽にも及んでいるがオペラと宗教音楽に優れたものが多い。ベートーベンを初めとする同時代の作曲家や後生に大きな影響を与えた。主な作品は「ロドイスカ」、「メデー」、「二日間」等。
ウィルヘルム・ケンプ(ドイツ:Wilhelm Kempff
ユーターボク生まれ(1895〜1991)。ピアニスト。教会オルガニストの家に生まれ、ベルリン高等音楽学校でピアノと作曲を学び、最優秀で卒業した。ベルリン大学で音楽史と哲学を修得して、在学中からピアニスト・オルガニストとして演奏活動に入り、世界的なピアニストとして知られる。ベートーベンを中心とするドイツ音楽の演奏を最も得意とし、情緒的名演奏には定評がある。
フレディ・ケンプ(Freddy Kempf
ロンドン生まれ(1997〜)。ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれる。4歳からピアノを始め8歳の時ロイヤルフィルとモーツアルトのピアノ協奏曲12番(K.414)を共演。王立音楽院ではピアノと作曲を学んでいる。1987年モーツアルト・コンヴェンション(ロンドン)、1992年BBCヤングミュージシャン・オブ・ジ・イヤーコンペティションに優勝、1998年チャイコフスキー国際コンクールで第3位ながら聴衆賞も獲得という栄冠に輝き世界的に注目された。卓越したテクニックと鋭い感受性、情感豊かな表現力などの持ち主で「若手時代をリードする才能」と期待されている。
レオニード・コーガン(ロシア:Leonid Kogan
ウクライナ出身(1924〜82)。ロシアのピアニスト。10歳からモスクワ音楽院でヤンポリスキーに学んだ。1947年、プラハの春国際コンクールで優勝、1951年エリザベート国際コンクールでも優勝して脚光を浴び、ソ連を代表するピアニストとして内外で活躍。1963年に母校の教授に就任した。優れた音楽性と抜群のテクニックの持ち主。
フィオレンツァ・コソット(イタリア:Fiorenza Cossotto
(1935〜)イタリアのメゾソプラノ歌手。トリノとミラノで学んだ後スカラ座の研究生となり、1958年にスカラ座でデビューした。ウィーン国立歌劇場やメトロポリタン歌劇場等世界で活躍、シミオナートの引退後のイタリア・オペラのメゾソプラノのトップ歌手の座にあった。メゾソプラノ歌手としては美声の持ち主で、多くの役柄で新しいイメージを築いた。
ゾルターン・コダーイ(ハンガリー:Zoltan Kodaly
(1882〜1967)。バルトークと並ぶハンガリーの代表的作曲家。音楽に関心の深い鉄道官吏の子として生まれ、幼い頃からピアノを習い、教会の聖歌隊にも所属した。1902年ブダペスト音楽院に入学、作曲をハンス・ケスラーに学ぶ。作品は民謡や伝説から素材をとっているものが多い。例えば、“ある話をしている時、聞き手がくしゃみをしたら、その話は真実である”という言い伝えから“くしゃみの音から始まるほら吹き男の物語”を作曲した。組曲「ハーリーヤーノシェ」はその代表作品である。また、作曲ばかりではなくハンガリー民謡の収集と音楽教育に大きな功績を残した。主な作品には他に「ハンガリー詩編」、「ガランガ舞曲」、ハンガリー民謡「クジャクによる変奏曲」等がある。
テイト・ゴッビ(イタリア:Tito Gobbi
(1915〜84)。イタリアのバリトン歌手。法律を学んだ後声楽家に転じ、1955年にデビュー、2年後に歌った歌劇「椿姫」のジェルモンの成功で認められた。以後スカラ座を始め世界の檜舞台でヴェルディとプッチーニの最高歌手として活躍し、豊かな声量と性格俳優的な演技力も備わった傑出したオペラ歌手と高い評価を受けた。
ジェイムズ・ゴールウェイ(アイルランド:James Galway
アイルランド・ベルファスト生まれ(1939〜)。イギリスのフルート奏者。ロンドンの王立音楽大学とギルトホール音楽学校、パリ音楽院などで学んだ。ロイヤル・フィル、ロンドン響の主席を経て1970〜75年にはベルリン・フィルの主席を務めた。その後はソリストとして世界各地で活躍している。
アロイス&アルフォンス コンタルスイキー(ドイツ:Alfons&Aloys Kontarsky)
ウェストファーレンのイゼルローン生まれ(兄アロイス1931、弟アルフォンス1932〜)。国際的なピアノ・デュオとして知られるドイツのデュオ・ピアニスト。二人はケルンの音楽大学に入り、ピアノと室内楽を学び、1955年にミュンヘン国際音楽コンクールのピアノ。デュオ部門でショを受け、世界的なピアノ・デュオ兄弟として世に認められた。完璧ともいえる実力と素晴らしいハーモニーを持つ彼らのデュオは、ロマン派の音楽においても高い評価を得ているが、現代音楽では更に高い評価を受けている。
アルフレッド・コルトー(フランス:Alfred Cortot
1877〜1962)。フランスのピアニスト。ショパン弾きとして一世を風靡した。パリ音楽院に学んで20歳でデビューし、大成功を収めたが、ワーグナーに心酔して一時指揮活動に熱中した。ピアニストとしてはショパン、シューマン、ドビュッシー、ラベルを得意とし、新しい演奏様式を確立、名声を博した。1905年ヴァイオリンのティボー、チェロのカザルスと共に結成したコルトー・ティボー・カザルス三重奏団は世界一という評価を得た。
アルカンジェロ・コレルリ(イタリア:Arcangelo Corelli)
(1653〜1713)。イタリア・バロック音楽の代表的な作曲家・ヴァイオリニスト。弦楽作品にも優れたものが多いが、特に合奏協奏曲(コンツェルト・グロッソ)の創始者として名高い。1666〜70年まで当時イタリア音楽の中心地であったボローニャで学び、以降はほとんどローマで活躍した。枢機卿を君主に持った彼は恵まれた環境の中で創作活動を展開することができた。生涯を通じて六つの器楽曲集を出版したが、初めの五つはボローニャに於いて育てられつつあったトリオ・ソナタ、ソロ・ソナタに古典的な完成をもたらしたものであり、死後出版された作品6は事実上最初の合奏協奏曲である。合奏協奏曲作品6−8「クリスマス・コンツェルト」、トリオ・ソナタ作品3−4「ロ短調」、「ヴァオリン・ソナタ第12番「ラ・フォリアン」等。


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