クラシック音楽人名辞典 ラ〜ワ行
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フリッツ・ライナー(ハンガリー:Fritz Reiner) |
ブダペスト生まれ(1888〜1963)。ハンガリーの指揮者。のちアメリカに帰化。ブダペスト音楽院出身。ハンガリーとドイツで指揮をしたのち、1922年アメリカに移り、シンシンティ交響楽団、ピッツヴァーグ交響楽団の指揮者を勤め、1953〜63年シカゴ交響楽団の常任指揮者となり、この楽団を世界一流に育て上げた。精緻な表現を追求、近代・現代音楽を得意とした。 |
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モーリス・ラヴェル(フランス:Maurice Ravel) |
バスク地方のシブール生まれ(1875〜1937)。フランスの作曲家。パリ音楽院で作曲をガブリエル・ッフォーレに学ぶ。在学中から個性的な作風を持つ作品を発表、一部で注目されていたが、「弦楽四重奏曲ヘ長調」(1903)ドビュッシーに絶賛され作曲家としての地位を確立した。ピアノ曲「鏡」、(1905)、「夜のガスパール」(1908)、バレエ音楽「マーメール・ロア」(1908)、「優雅で感傷的なワルツ」(1911)、「ダフニスとクロエ」(管弦楽曲「スペイン狂詩曲」等の主要作品を発表、ドビュッシーの印象主義的作風とは異なるスタイルを打ち立てた。特に「ボレロ」はポピュラー音並に世界的な流行をみて、ラヴェルの名を一層高めた。 |
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セルゲイ・ヴァシリエビッチ・ラフマニノフ(ロシア:Sergey Vasil’evich Rakhmaninov) |
ノブゴロド県オネグ生まれ(1873〜1943)。ロシアの作曲家・ピアニスト。1882年ペテルブルク音楽院に入学したが、1885年にはモスクワへ移り、4年間ニコライ・ズベレフにピアノの個人教授を受けた。モスクワ音楽院ではアレクサンダー・シロティにピアノを、セルゲイ・タネーエフとアントン・ステパノヴィッチ・アレンスキーに作曲を学んだ。卒業後は指揮者などもしながら、巨匠的ピアニストとして内外に知られた。革命後スイスに亡命し、1935年アメリカに定住した。作風は、チャイコフスキーを受け継いだロマン的叙情派。独特のセンチメンタリズムを伝統的な手法で表現した。20世紀前半を代表する名ピアニスト。作品は「アレコ」などオペラ3曲、交響曲2曲、交響詩「死の鳥」、ピアノ協奏曲「パガニーニの主題による狂詩曲」、24の前奏曲を含む多数のピアノ曲、歌曲等。 |
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ジャン・フィリップ・ラモー(Jean-Philippe Rameau) |
ディジョン出身(1683〜1764)。フランスの作曲家・理論家。フランス各地の協会のオルガン奏者を勤めたのち、」1723年以降パリに定住した。1730年代以降歌劇の作曲に積極的に取り組み、ジャン・パップティスト・リュリ以後のフランス歌劇最大の貢献者となった。1752年、イタリアのジョバンニ・バティスタ・ペルゴレージのオペラ・ブッファ「奥様になった女中」のパリ公演をきっかけとしてひき起こされた「プフォン論争」ではフランス音楽の価値と特質を説き、多くの論文を発表した。主な理論的著作に「和声論」がある。 |
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ヴィクトール・ラロ(フランス:Victor-Antoine-Edouard Lalo) |
リール(スペイン領のちフランス領)生まれ(1823〜92)。フランスの作曲家。パリ音楽院でヴァイオリンと作曲を学ぶ。はじめ作曲家として認められずヴィオラ奏者として演奏活動に従事したが、ヴァイオリンと管弦楽のための「スペイン交響曲」(1873)が、1875年名手パブロ・デ・サラサーテにより初演され、ようやく作曲家としての名声を確立した。ラロの作品は、スペイン情緒を強調、あざやかな色彩を追求した点に特色があり、当時のフランス楽壇においては異色の存在であった。 |
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グスタフ・ランゲ(Gustav Lange ) |
ドイツの作曲家・ピアニスト。シュベルシュタット生まれ(1830・8・13)、1889・7・19にベルニゲローデで亡くなった。A・W・バッハ、グレル、レシュホルンなどに師事し、殆どをベルリンに住んで作曲活動をした。400曲以上のピアノ曲を作曲、また、シューベルトやグノーの曲やイギリス民謡などを編曲しているがどれも美しいものばかりで初歩のレスナーに好まれている。 |
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ジャン・ピエール・ランパル(フランス:Jean-Pierre Rampal) |
マルセイユ生まれ(1922〜2000)。フランスのフルート奏者。フルート奏者でマルセーユ音楽院教授であった父に学び、1947年ジュネーヴ国際音楽コンクールで第1位。フランス国立放送管弦楽団、パリのオペラ座管弦楽団などの楽団員として活躍したのちソリストに転じ、華麗な音色と卓越した技術で世界的その名を知られるようになった。レパートリーは極めて広い。 |
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フランツ・リスト(ドイツ:Franz Liszt) |
ハンガリー・ライディング生まれ(1811〜86)。ドイツ国籍の作曲家。交響詩の創始者。19世紀最高の人気ピアニストで、ヴァイオリニストのニコロ・パガニーニとともに19世紀の名人演奏家の双璧。ウィーンでカール・チェルニーにピアノを学び、さらにパリに出て音楽全般の教育と一般教育を受けた。1830年エクトール・ベルリオーズ、1831年パガニーニ、1832年ショパンを知り彼らの音楽に刺激される。特にパガニーニの超人的な演奏技術は深い感銘を与え、リストを新しいピアノ奏法の完成へと駆り立てた。1847年まで各地を演奏旅行し、圧倒的な人気を得た。その間1842年ワイマール宮廷楽長に任命され、1858年まで指揮者として積極的に活動、特にベルリオーズ、リヒャルト・ワーグナーの作品紹介とベートーベンの交響曲普及に尽力、また創作にも力を注ぎ交響詩をはじめ多くの重要作を生んだ。婚約が不首尾に終わったのち、一時修道院生活を送り、宗教的題材による作品を多く書いた。1869年、ワイマール宮廷の強い要望により居をワイマールに移し、また1875年ブダペストに音楽アカデミーが設立され、その責任者になった。多くの作品を残したが、華やかな技巧を駆使したピアノ曲が最も重要である。ハンガリー狂想曲、交響詩。 |
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カール・リッダーブッシュ(ドイツ:Karl Ridderbusch) |
(1932〜)。ドイツのバス歌手。1961年ミュンスターの歌劇場でデビューし、ライン・ドイツ・オペラを中心に、ウィーンやハンブルクの歌劇場、コベント・ガーデン王立歌劇場、メロトポリタン歌劇場などの大舞台に立っている。ワーグナー作品とリヒャルト・シュトラウス作品を得意としている。20世紀を代表する名歌手。 |
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ディヌ・リパッティ(ルーマニア:Dinu Lipatti) |
(1917〜50)。ルーマニアのピアニスト。11歳でブカレスト音楽院に特別入学した。1934年ウィーン・コンクールで第2位になり、審査員のコルトーの招きでパリで研鑽を重ねた。ナチの台頭で帰郷したものの1943年にスイスに移りジュネーヴ音楽院の教授に就任したが、白血病のため死去。30歳にしてバッハ、モーツアルト、ショパン、などのスペシャリストとしての評価を確立させた。 |
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ジャン・ジャック・ルソー(フランス:Jean-Jacques Rousseau) |
ジュネーヴ生まれ(1712〜78)。フランスの思想家・文学者。幼くして母を亡くし、父とも別れて叔父や教師の家で育てられた。1742年音楽家として立つことを決意してパリに出、ディドロらの百科全書派の人々と交わった。1749年ディジョンのアカデミーの懸賞課題「学問と芸術の復興は風俗の純化に寄与したか」に応募して当選し、一躍有名になる。音楽に対しては、生涯にわたって強い情熱を抱き、自ら演奏や創作をおこなっている。歌曲を中心に約120曲ほどの作品を残した。その中でルソーの名を音楽史の中に刻み込んだのは1幕物の牧歌劇「村の占師」である。この曲は1752年にフォンテーヌブローの離宮でルイ15世の御前演奏の形で初演されたが、ルソーは更にかなり手を加えたかたちで、翌1753年3月1日に、パリのオペラ座で一般観衆の前で披露した。初演の時には無かったが、オペラ座初演用に書き加えたものに、パントマイムがあり、その中に出てくる旋律の一つが他人の手により編曲された「メリッサ」となる。のちヨハン・パプティスト・クラーマーが編曲し刊行したピースが「ルソーの夢。ピアノフォルテのための主題と変奏」である。 |
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クリスタ・ルートヴィッヒ(ドイツ:Christa Ludwig) |
(1924〜)。ドイツのメゾ・ソプラノ歌手。声楽家の両親に学び、フランクフルト音楽院で学んだ。1946年デビュー、ダルムシュタット、ハノーファー、ウィーンの歌劇場の専属として活躍。メトロポリタン歌劇場やコヴェント・ガーデン王立歌劇場、スカラ座などにも出演している。ドイツのメゾ・ソプラノとして20世紀後半を代表する歌手。 |
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スヴャトスラフ・リヒテル(ロシア:Sviatoslav Richiter) |
ウクライナ生まれ(1915〜97)。ロシアのピアニスト。後期のソ連を代表する名手。父親にピアノを習い、15歳からオペラの練習ピアニストを経験、モスクワ音楽院でゲンリヒ・ネイガウスの教えを受け、在学中の1940年から演奏活動に入った。1950年から東欧諸国へ、1960年代に入って欧米へも活動範囲を広げた。技巧性と即興性を織り交ぜた独特の音楽を聴かせた。 |
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ニコライ・アンドリービッチ・リムスキー・コルサコフ(ロシア:Nikolay Andreevich Rimskiy-Korsakov) |
ノブゴロド県チフビン生まれ(1844〜1908)。ロシアの作曲家。「五人組」の一人。海軍士官になったが、バラキレフと会ってからそのグループに加わり、真剣に作曲を始めた。1871年パテルブルク音楽院教授に選ばれ、生涯その地位にあって、多くの英才を輩出させた。アレンスキー、グラズノフ、ストラビンスキー等その数200人以上。作品は、15のオペラ(「雪娘」「サトコ」等)、「スペイン奇想曲」、「シェラザード」、「ロシアの復活祭」、3つの交響曲を含む管弦楽曲が特に重要。「民謡の編曲やグリンカ、ムソルグルスキー、ボロディンの作品の校訂や補作も重要な創作である。 |
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アルトゥール・ルビンシュタイン(ポーランド:Artur Rubinstein) |
ルージ生まれ(1887〜1982)。ポーランドのピアニスト。のちアメリカに帰化。20世紀を代表する巨匠の一人。神童ぶりをヨーゼフ・ヨアヒムに認められ11歳でデビュー。ヨアヒムの紹介でイグナッツ・ヤン・パデレフスキーに師事した。16歳頃から欧米各地でソリストとして活躍、絢爛たる演奏で絶賛を博した。1937年以後アメリカに定住した。ショパンの他、近代スペイン・近代フランス音楽を得意とする。 |
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アントン・グリゴーレヴィッチ・ルビンシュタイン(ロシア:Anton Grigorevich Rubinstein) |
ベッサラビアのビホバティネッツ生まれ(1830〜94)。ロシアのピアニスト・作曲家。少年時代、一時パリでフランツ・リストに師事したが、10代の初めにヨーロッパ各地に演奏旅行する程の神童ぶりを発揮、のちリストと並ぶ高い名声を得た。1859年、ロシア音楽協会を設立して指揮者を勤め、1862年ロシア最初の音楽学校ペテルブルク音楽院を創立し、初代院長に就任、ロシア楽壇の水準向上に尽力した。作品にはドイツ・ロマン派の影響が強く残っており、ピアノ曲「天使の夢」、「ヘ調の旋律」が知られている。 |
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ルッジエーロ・レオンカバルロ(イタリア:Ruggiero Leoncavallo) |
ナポリ生まれ(1858〜1919)。イタリアのオペラ作曲家。幼時からピアノを学ぶ。ナポリの音楽学校卒。処女作の上演の手違いから莫大な負債を負い、ヨーロッパ各地を楽士などをしながら放浪中、崇拝するリヒャルト・ワーグナーににパリで会って激励され、みずから台本を書いて大作の作曲を始める。ピエトロ・マスカーニの「カベレリア・ルスチカーナ」に刺激され、生々しい効果を持つ「道化師」を作曲、1892年初演、大成功を収める。その後は特に成功作はないがマスカーニと共にベリズモ・オペラの代表者として19世紀末から20世紀初頭の作曲界に与えた影響は大きい。 |
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オットリノ・レスピーギ(イタリア:Ottorino Respigui) |
ボローニャ生まれ(1879〜1936)。イタリアの作曲家。ボローニャ音楽院卒業、翌年ロシアのペテルブルグ(レニングラード)帝室歌劇場のヴィオラ奏者となり、リムスキー・コルサコフを知り、作曲を学ぶ。1902年ベルリンに移ってマックス・ブルッフに作曲を師事、同時に盛んな作曲活動を始める。1913年ローマのサンタ・チェチリア音楽院作曲科教授となり、生涯その職にあった。オペラも書いたが、本領は器楽曲にあり、三部作の交響詩「ローマの噴水」(1917)、「ローマの松」(1924)、「ローマの祭」(1929)が代表作。折衷的な作風で後世に与えた影響は乏しいが、20世紀前半の数少ないイタリアの器楽曲作曲家として、イタリアでの評価は高い。 |
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フランツ・レハール(ハンガリー:Franz Lehar) |
コマーロム生まれ(1870〜1948)。ハンガリーの作曲家・」オーストリーのオペレッタ作曲家。プラハ音楽院卒業後、各地の軍楽隊を指揮した。軍楽隊を退官後、ウィーンに落ちついてウィーンの歌劇場の指揮者兼作曲家として活躍。オペレッタの作曲に専念するようになった。「メリー・ウィドー」(1905)は特に成功し、世界各地で繰り返し上演された。30余のオペレッタを中心に、ワルツ「金と銀」(1899)や行進曲など、それと判る独自なスタイルを展開している。 |
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ゲンナディ・ロジェストヴェンスキー(ロシア:Gennady Rozhdestvensky) |
(1931〜)。ロシアの指揮者。ロシアの指揮者。グネーシン音楽学校とモスクワ音楽院でピアノを学んだが、同時に父で名指揮者のアノーソフから指揮法も学ぶ。1951年から指揮活動を始め、1955年の音楽院卒業試験での指揮で注目を集めた。翌年ボリショイ劇場の指揮者に就任、1961〜73年にはモスクワ放送響の音楽監督、1965年からボリショイ劇場の首席、1970年代から国外での活動を活発化させて、ストックホルム・フィル響、BBC交響楽団、ウィーンフィル響などの首席を勤めた。 |
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ムスティスラフ・レオポルドヴィッチ・ロストロポーヴィッチ(ロシア:Mstislav Leopol’dovich Rostropovich) |
バクー生まれ(1927〜)。ロシア、アメリカのチェリスト・指揮者。モスクワ音楽院出身。7歳からチェリストの父にチェロを学び、グネーシン音楽学校とモスクワ音楽院で学んだ。モスクワ音楽院卒業と同時に同校の教授に就任し、屈指のチェロ奏者としても活躍した。驚異的な演奏技巧の持ち主で、1956年以来西ヨーロッパ、アメリカ各地に演奏旅行し、センセーションを引き起こした。1964年レーニン賞受賞。難曲をやすやすと弾くさまは壮観であり、現代の第一人者である。プロコフィエフ、ショスタコーヴィッチ、カバレフスキーなど彼にチェロ曲を捧げた作曲家は多い。1968年には指揮者としてデビューし、アメリカに移ったのち1977年からワシントン・ナショナル響の音楽監督を勤めた。夫人はソプラノ歌手のヴィシネフスカヤ。 |
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ジョセフ・ローゼンストック(アメリカ:Josef Rosenstock) |
ポーランド・クラクフ生まれ(1895〜)。ポーランド生まれのアメリカの指揮者。クラクフとウィーンの音楽院、ウィーン大学に学び、1918年から主にドイツの歌劇場指揮者を勤めた。1936年(昭和11年)来日、以後10年間新交響楽団およびその後身日本交響楽団(現NHK交響楽団)の指揮者としてその育成と向上に尽力した。1946年渡米、ニューヨーク・シティ・オペラ指揮者となり翌年アメリカに帰化した。 |
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ジョアッキーノ・ロッシーニ(Gioacchino Rossini) |
ペザロ生まれ(1792〜1868)。19世紀初頭のイタリアの代表的オペラ作曲家。父は屠殺場監督兼ラッパ手、母は歌手だった。1799年ボローニャに移住、音楽に親しみ、15歳で同地の音楽院に入学、スタニスラス・マッティに作曲を習う。1810年退学し、同年ベネツィアの劇場のため歌劇「婚約手形」を書き、その後一作ごとに認められ、1813年歌劇「タンクレーディ」、「アルジェのイタリア女」の成功、続く1816年歌劇「セビリアの理髪師」で全欧で有名になる。以後ナポリ他各地で新作を発表、1824年パリ移住、同地のイタリア劇場の音楽監獄に就任、旧作や新作を上演、宮廷作曲家を兼ね1829年「ウィリアム・テル」を初演、大成功を得る。その後はピアノ曲や声楽曲などを作曲して76歳で死去。作風は旋律美豊かで明快流麗、ロッシーニ・クレシェンドと呼ばれる漸強音効果を用いて劇的効果を高めるなど独創性がある。 |
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パウル・ロブソン(アメリカ:Paul Robeson) |
プリンストン生まれ(1898〜1976)。アメリカの黒人バス歌手。牧師の子として生まれた。コロンビア大学で法律を学んだのち、演劇に転向、オニールの「皇帝ジョーンズ」で絶賛を博した。1925年歌手としてニューヨークにデビュー、1928年には「ショー・ボート」、1930年にはロンドンで「オセロ」に出演して記録的成功を収めた。映画「ショー・ボート」の中の「オール・マン・リバー」や黒人霊歌の感動的名唱は有名である。1935年訪ソ後共産主義に共鳴、人種差別や世界平和運動に尽力したため祖国を追われた。1952年国際レーニン平和賞を受賞。 |
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マルグリット・ロン(フランス:Margurite Long) |
ニーム生まれ(1878〜1966)。フランスの女流ピアニスト。ロン・ティボー国際コンクール創始者。パリ音楽院出身。1891年デビュー。フランスの近代ピアノ音楽の紹介と普及に尽力、ドビュッシー、ラヴェルを特に得意とし、フランスの代表的ピアニストとして活躍した。1921年音楽学校を設立1941年ロン・ティボー音楽学校となる。 |
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クルト・ワイル(ドイツ:Kurt Weill) |
オデッサ生まれ(1900〜「50)。ドイツの作曲家。はじめオペラ指揮者として世に出たが、1928年初演の「三文オペラ」で世界的な名声を得、作曲家に転じた。この成功はジャズの手法を取り入れるなど大衆的なスタイルをオペラに適用したためである。ユダヤ系のため1933年アメリカに亡命、帰化した。以後ミュージカルや映画に進出人気を得たが「三文オペラ」のような世界的名声は得られなかった。 |
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フェリックス・パウル・フォン・ワインガルトナー(オーストリー:Felix Paul von Weingartner) |
ダルマチア生まれ(1863〜1942)。オーストリーの指揮者。晩年のリストに学び、ドイツ各地で指揮者として経験を積んだのち(1908〜27)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団およびウィーン国立歌劇場指揮者として活躍、名声を博した。1935〜42年ウィーン国立歌劇場監督を勤めた。その演奏は中庸を得た上品なもので、特にベートーベン解釈は後世に影響を与えた。20世紀前半の指導的指揮者である。 |
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リヒャルト・ワーグナー(ドイツ:Richard Wagner) |
ライプチヒ生まれ(1813〜83)。ドイツの作曲家。巨大な歌劇形式である楽劇に多くの名作を残し、19世紀後半の音楽に多大の影響を与えた。生後6ヶ月で父を亡くしたが、母の再婚したガイヤーという俳優兼劇作家の配慮で幼少から芸術的環境の中で育った。音楽は主として独学で修め1832年頃から各地の指揮者を勤めた。1839年パリに出て1842年ドレスデンの歌劇場で歌劇「ルエンチ」が上演され、その成功を機にドレスデン歌劇場の宮廷楽長に任命された。歌劇「さまよえるオランダ人」、「タンホイザー」、「ローエングリン」はドレスデン時代の作品である。1949年ドレスデンに革命が起こりスイスに逃れ、歌劇について多くの論文を書いた。それらの中で、諸芸術を総合した楽劇の論文を作り上げたが、その成果として「ニーベルンクの指輪」、「トリスタンとイゾルデ」、「ニュールンベルクのマイスタージンガー」などの大作を書き上げた。その名声は全ヨーロッパに高まり、1870年57歳でフランツ・リストの娘コジマと結婚した。バイエルン国王ルードウィッヒ2世の援助で、自分の作品を上演するための劇場を建設し、1876年のこけら落としに「ニーベルンクの指輪」全曲が上演された。作品は殆ど歌劇だが、後期の作品は独特の様式を持ち「楽劇」と呼ばれる。 |
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ブルノー・ワルター(ドイツ:Bruno Walter) |
ベルリン生まれ(1876〜1962)。ドイツの指揮者、のちアメリカに帰化。本名はブルノー・ワルター・シュレジンガー(Bruno Walter Schlesinger)。ベルリンで指揮を学び、マーラーに才能を認められ、ウィーン国立歌劇場で活躍、以後ミュンヘン国立歌劇場、ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団の指揮者を勤め、ナチス時代はユダヤ人であるため、再びウィーンウィーン国立歌劇場で指揮をとった。1939年アメリカに移住、ニュ−ヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、NBC交響楽団、メトロポリタン歌劇場などで活躍したのち引退した。 |
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エミール・ワルトトイフェル(フランス:Emil Waldteufel) |
ストラスプール生まれ(1837〜1915)。フランスの通俗作曲家。パリ音楽院出身。ワルツ集を自費出版したのが当たって、舞曲の作曲家ならびに指揮者としてヨーロッパの主要都市で絶大な人気を得た。多くの舞曲を残したが「女学生」、「スケートをする人々」が特に有名である。洗練された表現を得意としている。 |
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